若い頃気に入ったオスカーワイルド原作の「ドリアングレイの肖像」が、山本耕史を主役にして舞台になるというので見に行った。時代劇「新撰組!」と「陽炎の辻」の山本耕史しか知らないので、ちょっぴり違和感を持ちつつ、ちょっぴり期待もあった。
とにかく、読んだのが大昔だったので細かいところを忘れていて、あらためて斜め読みし直して出掛けた。
私にとっては、この作品は「永遠の美」の問題だったのだが、読み直してみて、オスカーワイルドは「美と若さ」に拘っていたんだと感じた。私にはそれほど「若さ」に執着する気持ちがない。
さて数分遅れて始まった舞台、銀色に輝く長い髪を束ねた姿で現れた山本耕史ドリアンは、案外素直に受け止めることが出来た。意外と胸が厚く、衣装でなんとか出来なかったかなとチラッと思ったけど、違和感は生じなかった。
むしろヘンリー卿に、もっと人格的肉付けが欲しかった。ドリアンに知をもて遊ぶ言葉で刺激を与え、彼の人生を決定付けた人物だもの。
撮影用のカメラが入った日だったし、気合の入った舞台だったと感じたが、なんといっても作品に思い入れのある観客は、どうしてもダメだししてしまうものなのだろうね。
見ていた演技にあまりイギリス的なものを感じなくて、男同士の友情以上のものを示したかったのかもしてないが、まるでフランス人みたいだった。
組んだ鉄骨の回廊と階段が回転して、劇場やドリアンの家、画家の家などに変化する演出はいいアイデアだったと思う。それで絵を隠しているのが屋根裏部屋でなく地下室となったとしても大きな問題ではないだろう。
でも、画家を殺すのと昔の許婚者の弟を殺すことは全く別のことだ。許婚者の弟を自らの手で殺すと、ドリアンの人物が変化すると思う。これは納得がいかなかったし、はめた指輪で老人の死体がドリアンであることが判明するはずなのに、指輪をまえもってヘンリー卿に返却しており、亡くなったドリアンの指にヘンリー卿が指輪をはめるエンディングも理解できなかった。
脚本家の意図が書かれているかと思って、買う気のなかったパンフレットを買ってきて読んだけど、その辺のことはなにも書かれてなかった。
妖しいまでに美しいドリアンの肖像画をどう表現しているかもポイントだったが、濁った色合いの油絵的な眼の映像が、最初からあっというまにCGで歪んで溶けてしまった。まず人の心をつかむほどの美しさがないし、衰えてゆく時間的経過も表現されてなかった。ガッカリだった。多分、私と脚本家は重要とする点が異なるのだろう。
世田谷パブリックシアターには初めて行った。SePTと書くんだね。野村萬斎が芸術監督だそうだ。
最近のコメント