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2013年1月12日 (土)

新春 桂米團治独演会 於銀座ブロッサム中央会館

昨日、米團治の独演会に行ってきた。銀座なんて頭についているからどこかと思ったら、地下鉄新富町駅そば。落語をやるときは新富町と言ったほうが粋な音だよね。

落語の独演会って初めてだったけかな。一人で喋りまくるわけではなく、お弟子さんが中で喋って、本人の着替えや一息を助けるんだね。桂米輝と桂米紫、ふたりともそれなりに上手かったよ。よく笑えたもの。耶蘇教かぶれの日本語はちょっと違和感あったけどね。

中川清(桂米朝)作の「淀の鯉」、米朝が21歳という若さで書いた脚本というので、どんなものだろうと思ったが、とてもよく出来ている。米朝の才能の素晴らしさを示しているんだね。それから、これって以前一度聞いたことがあると感じた。米朝の舞台は見たことないはずだから、きっとTVだろうね。

米團治襲名前後の必死の舞台に心動かされて、何度か彼の舞台に足を運んでいる。段々慣れてきて、あんな必死の舞台にはもう巡り合えないけれど、素直に笑って帰れればいいと思おう。それにしても、「サクラか?!」と言いたくなるくらい強烈に笑う人たちがいる。追っかけかな。笑いたくて来てるんだね。聴きに来ているとは言いたくない。

ちょうど昨日の昼間、偶々録画されていたNHK番組ビデオを見た。笑福亭仁鶴が大阪の笑いの歴史を案内していた。私は長年「大阪の泥臭い笑いは肌が合わない。やすしきよしの漫才と仁鶴のお喋り以外は嫌いだ。最近の例外が米團治」と思ってきたが、旧い漫才に大笑いする私、びっくりした。今の関西の笑いとどこが違うのだろうと考えたら、演者の芸に対する真剣度じゃないかと思い至った。表面的な笑いを取るだけで人気者になれ、ボケをやってるけど書物をたくさん読んでいるんですよとか、雑学をいろいろ知っているんだとクイズに出たりする傾向があるものね。どんな形であれ、人気が出て、TVにあちこち出て、芸人が食べていける現代の傾向は、それはそれでいいのかな。

笑いということについて、ちょっとだけ考えた夜だった。

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